「いつかのふたり」を観て

高校時代の友人Nが映画監督になっていたので、新宿の映画館へ観に行ってきた。

映画『いつかのふたり』
映画『いつかのふたり』公式サイト。 レザークラフトを通して母(中島ひろ子)と娘(南乃彩希)の気持ちの繋がりをコミカルに描く親子協奏曲。 今や、レザークラフトをはじめハンドメイド市場は大きなマーケットに成長し、手軽にできるキットや雑誌の創刊、長蛇の列ができる作家のワークショップ、ネットやアプリ、テレビCMなどメディアで紹...

劇場の入口で彼の名前の入ったポスターを見て、改めて彼が本当に映画監督になったのだと実感した。高校を卒業してからほとんど会っていないので、映画の公開までどういう葛藤があったのか僕は知らない。それでも、小学校の頃から映画好きで有名だった彼が、本当に映画監督になったことを実感すると、やはり感慨深い気持ちになった。

 

裏切られた予想と全体の感想
僕は、監督としての第一作目だから、社会の生々しい現状を突きつけるドキュメンタルで粗削りな作品だろうと勝手に予想していた。豊田利晃監督の「青い春」みたいな、編集もレイアウトどころか、音声すらも粗削りで、死と青春が同義になっているような、殺伐とした彼の死生観や表現欲求が凝縮されているだろうと……。

だが、実際には監督一作目とは思えないほど、脚本もテーマも演出も、和食のコース料理のようにきれいにまとまっていた。監督自身が脚本を書き下ろしたにも関わらず、破綻はもちろんエゴも矛盾も見られないどころか、清潔感と気品すら漂っていた。「嘘やろ?」と高校時代の彼を知る僕は思った。「あのアイツの一作目がこれ!?」と。ここで当時の彼を詳細に書くと彼の名誉と今後に関わるのでお口チャックしておいてあげよう。あと、ここからはネタバレしないよう注意しながら感想を述べていきたいと思う。

 

概要と主要人物
映画ではポスターの通り、母親とその娘の「お互いの成長」が描かれている。母親の麻子は明確な病名こそ明かされないものの、発達障害かHSP(Highly Sensitive Personの略)気味の性格を帯びた人物である。それを除けば、明るく娘想いの母親なのだが、ことあるごとに上記の性格が原因で、娘との距離の取り方を誤ったり、どう接していいのか分からなくなってしまう。

娘の真友は対照的で、母の症状に対して一定の理解があり、論理的でありながら懐に入られるのを拒むように斜に構えた物言いをする。高校三年生の不登校で、作家になりたいという漠然とした夢があるが、そのために自分だけが大阪へ行き母を一人にさせるのはどうだろうと迷う。

 

演出について
僕は最初、娘が主人公だと思っていたが、いつの間にか母親に話の軸が移動していた。こうした主人公を移動させる演出が、いかにも日本的で丁寧だなと思った。

もし、序盤で女の子の将来不安や不登校がフォーカスされ、そこで彼女が親に反抗的な態度を示し、夜中に彼女がサリンジャーのライ麦を読むシーンでもあれば、それは説明的で凡庸になってしまうだろう。しかし、そんなシーンはなかった。不登校の彼女が感情的になるのは、母親と父親に関わる時だけだった。母親と二人で暮らしているのに、その窮屈さやわずらわしさを前面に出すことなく、話の序盤から母親の立場になって物事を考えられる人物として描かれていた。

 

よかった点
母親はレザークラフトという没頭できる趣味を見つけたことと、家族で温泉旅行に行けたことで、区切りのようなものを自分でつけ、娘が大阪へ行くことを勧めるが、やはり心の内には寂しさが漂っていた。娘はそんな母親の思いを全て汲み取った上で目を合わせず、
「お母さんの症状と私が大阪に行くかどうかは関係ないから」と言う。

そして、こうした心境の変化は互いの胸の内を明かす映画の見せ場であるのに、登場回数の多い「いつもの部屋」で行われていたのは興味深かった。単に予算がないから部屋で撮るしかなかったのかもしれないが、それでも海や丘といった背景に頼らず、普通の室内で、しかも昼間の素面で、長めのカットで、親子を撮り切ったのはすごい。その時の何気ないカメラの動きや、役者の目線、声のボリュームなど、全てがストライクに収まっていて、アメリカのドラマにありがちな大声合戦とは真逆からアプローチしていて、とてもいいと思った。

また、この映画を見ている間、子が一人立ちしていく母親の気持ちの落としどころ、整理の付け方はどこに持っていくべきなのだろうという「問い」が絶えることなく通底しているのもよかった。違う人物の場面になっても、その問いを映画を観ている僕が忘れることはなかった。その持続のさせ方にどんなテクニックがあったのかまでは分からない。しかし、少なくとも小説で一つのテーマを持続させ読者にそれを考えさせ続けるには高い技術を要するので、きっと映画でも同じだろうと想像すると「何かしらの技術が高い」のだろう……。(冗漫)

 

高い技術
おそらくであるが、何かしらの技術とは、僕の記憶の範囲内であるが、感情移入させようとする、娘・母の一人だけのシーンがなかったこと。よくドラマにある、一人で電車に乗り外の風景を眺めながら考え事をしているような場面や、一人で昔のアルバムを見たり、さみしく食事をしたりする場面――。といった説明的な場面。が一切なく、僕は娘・母の両方に感情移入してしまった。

また、ものを壊したり、走ったり、泣いたり、転んだりする場面もほとんどなかった。普通の映画なら、上記のどれかが20~30分に一度くらいは訪れるがそれがない。その代わりに小さなエピソードを数多く用意し、その積み重ねで娘と母の感情を高めていたように思う。その分、滅多に見せない娘の感情が引き立っていた。

 

 

まとめ
「この映画は監督自身の体験や叫びとは一線距離を置いたところからメッセージが投げかけられていることに、一作目から監督の成熟性を感じた。」なに今のキザな一文…と思った方もいるかもしれない。でも本当にそう思った。なぜなら僕が書いた小説は大概、自分自身がそこにゴリゴリに投影されているからだ。自分自身の肉片とまではいわないが、ここぞという場面では自分の口からいつ出てもおかしくないような言葉がそのまま台詞となって小説の本文に採用されている。それが彼の映画にはなかったのだ。普通出るよね。

 

余談
そういえば彼は昔から「宇宙の始まりなんて結局全部偶然やろ」とか「誰よりも早く帰るために学校に来てる」とか、妙に高い視点からものを見ていた……。その性格が出ているのかもしれない。それとも、自分の言いたいことを役者に言わせていて、自分の生の声を煙に巻ける脚本を書く技術が高いのかもしれない。それは分からない。が、僕から彼に一つ注文があるとすれば、何らかの「作家性」を持って欲しいということである。今回の映画で彼は映画の基礎は勿論応用もこなしていた。欠けているとすれば、唯一無二と言わしめる作家性だと思った。次回作では彼が最も重視する暑苦しい程の何かを感じたいと思った。

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